KANGEKI-LOG

観劇とか感激とか思考の吐き出しとか

CLEAR

 「今この人の顔面をグーパンしたらどんな反応するかなあ」――好きな人と他愛ない話をしながら、頭のかたすみでふと「明日の天気はなんだろう」くらいの気軽さをもって考える。そんなことしないしできっこないのだけれども、そういった思考は物心ついたときから私に備わっているようだった。苛々してるわけでも相手が嫌いでも憎いわけでも自身がダウナーになっているわけでもなく、会話を楽しみ食事を口に運びながらも、脳みその1メートル後ろあたりで呼吸をするように思うのだ。グーパン。試しに空いた手を握って開いてみても虚しい。けれどどこか安心している自分がいる。店に流れる落ち着いたサウンドの中から、耳がすくいあげたのは硝子を砕くような高音のピアノだった。貴方が「この曲好きだな」と呟く。綺麗だねと笑いながら、あなたが好きよ、と心底思いながら、貴方の鼻を拳で折る自分を思い描いて、私は。自分が人間であることを確かめている。

 駅のホームに立つと毎回、電車に飛び込む自分を幻視する。死にたいわけではなく、落ち込んでいるわけでもなく、ただ、わたしと重なる違うレイヤー上で、透明なわたしがためらいもなく軽やかに、電車に飛び込んでゆく。電車に乗って、揺られて降りて、ホームを歩いて階段を上って―――1秒をさらに果てしなく細切れにした一瞬ごとにわたしは誰にも見えないしかばねをあちこちにさらして、置き去りにして進んでゆく。「ひさしぶりにあいたいな」そう言ってくれた記憶もおぼろげなあの子に会うため、雑踏をひとり、人に当たらないゲームをしながら歩いていく。ああ、透明になりたい。生きている人が空気を奪いあっていて、混ざり合った体温が滞留していて、息苦しいから。レイヤーを非表示にしてきれいな透明になりたい。小さな震動。「ついたよ」の4文字がスマホの液晶に表示される。細いけれど輪郭のはっきりした書体。そう、あの子はひらがなばかりを打つ子だった。

 「かなしい」と聞くと「愛《かな》しい」の文字が浮かんでしまうのは、大学の卒論のせいだと思う。「愛」も「悲」も「かなしい」なんだ。万葉集の4500首あまりの中には「愛《あい》」や「愛《いと》しい」なんて言葉はひとつもなくて、愛も愛しさも、ずっとずっと後に取って付けたようにうまれてきたんだよ。でも私は「愛」という言葉が、50音のはじまりにいる2音で形作られているのがとても好きなんだ。そして「あい」はまた「哀」にもどってくるんだな、と言葉の宇宙に放り出されてしまう。ところで万葉集で「愛し」と書き表されるとき、それは「うつくし/うるはし」って読むんです――「結局見た目ってことですかね」と、巫山戯た私の零し言に、教授はまなじりをほっそりと緩めただけで。教授の研究室はやわらかい西日の差し込む部屋だった。あわいオレンジ色の夕焼けが一瞬だけ広がって、壁を埋め尽くす源氏物語平家物語古今和歌集を照らし、暮れた。愛しさとか悲しさとか目に見えないものについて考えるとき、本当は言葉なんて消して棄ててしまいたい。考えるには伝えるには在ることばでやりくりしなくてはいけないのがひらすらに不自由で、かなしい。どちらの?私の「かなしい」は、いつかみたあの一瞬の夕焼けにいっとう近いところにある気が、している。




参加させていただきました。鉱物のクラスターが好きなのでバナーにときめいてしまう。

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