KANGEKI-LOG

観劇とか感激とか思考の吐き出しとか

 先日のこと。仕事途中の運転中、交差点で信号待ちをしているとぽつぽつと雨が降ってきた。ふと目にとまったのは、両手に荷物を持って半歩ずつみたいな歩幅でゆっくりすすむ老齢の男性だった。雨はあっという間に土砂降りになって、私はちょっとだけ悩んで、青信号で発進したのち交差点の向こう側にあったユニクロの駐車場に車を止めた。傘をさして交差点に引き返す。男性と私の間には横断歩道があって、信号は赤だった。濡れ鼠状態の男性にそわそわしていると、男性の後ろに赤い傘をさした女性が立って、傘の半分を男性に手向けた。
(あ、私要らないかな)
と、車に戻るか迷ったところで青信号。男性が女性に大丈夫だという風に手を振る姿が見えた。とりあえず私も横断歩道を半ばまで渡って「大丈夫ですか?」と声を掛ける。「大丈夫、近くだから」と男性は差し出したふたつの傘を退けるように手を振った。そうなると私も女性も無理強いすることはできなかった。

少し前の私だったら、男性に対して腹を立てていた気がするのだけれど「そっか」とすとんと思って終わったのが自分でもふしぎだった。男性にとっては土砂降りの雨を浴びることよりも、誰かに助けられることや、傘に入れられることのほうが失うものの方が大きかったのかも知れないな、とぼんやり考えながら駆け足で車に戻る。ガラス越しに追った男性の行き先はユニクロで、マスク買うのかなあとか考えたりして。一瞬でびしょ濡れになったスラックスを冷房で乾かしながら、私はきっとあそこで引き返さなければ一日もやもやしていただろうし、傘を持って交差点に向かったのは一から十まで自分のためだったのだなあ、と思う。私は自分のために傘を差しだそうと動いて、男性もきっと自分のために傘を断ったのだろう。それはそれで悪くない感覚で、ひとつの息のしやすさのような気がしたし、私はこの先きっと何度でも、迷わずに自分のために傘を持って走るんだろう。備忘録。

CLEAR

 「今この人の顔面をグーパンしたらどんな反応するかなあ」――好きな人と他愛ない話をしながら、頭のかたすみでふと「明日の天気はなんだろう」くらいの気軽さをもって考える。そんなことしないしできっこないのだけれども、そういった思考は物心ついたときから私に備わっているようだった。苛々してるわけでも相手が嫌いでも憎いわけでも自身がダウナーになっているわけでもなく、会話を楽しみ食事を口に運びながらも、脳みその1メートル後ろあたりで呼吸をするように思うのだ。グーパン。試しに空いた手を握って開いてみても虚しい。けれどどこか安心している自分がいる。店に流れる落ち着いたサウンドの中から、耳がすくいあげたのは硝子を砕くような高音のピアノだった。貴方が「この曲好きだな」と呟く。綺麗だねと笑いながら、あなたが好きよ、と心底思いながら、貴方の鼻を拳で折る自分を思い描いて、私は。自分が人間であることを確かめている。

 駅のホームに立つと毎回、電車に飛び込む自分を幻視する。死にたいわけではなく、落ち込んでいるわけでもなく、ただ、わたしと重なる違うレイヤー上で、透明なわたしがためらいもなく軽やかに、電車に飛び込んでゆく。電車に乗って、揺られて降りて、ホームを歩いて階段を上って―――1秒をさらに果てしなく細切れにした一瞬ごとにわたしは誰にも見えないしかばねをあちこちにさらして、置き去りにして進んでゆく。「ひさしぶりにあいたいな」そう言ってくれた記憶もおぼろげなあの子に会うため、雑踏をひとり、人に当たらないゲームをしながら歩いていく。ああ、透明になりたい。生きている人が空気を奪いあっていて、混ざり合った体温が滞留していて、息苦しいから。レイヤーを非表示にしてきれいな透明になりたい。小さな震動。「ついたよ」の4文字がスマホの液晶に表示される。細いけれど輪郭のはっきりした書体。そう、あの子はひらがなばかりを打つ子だった。

 「かなしい」と聞くと「愛《かな》しい」の文字が浮かんでしまうのは、大学の卒論のせいだと思う。「愛」も「悲」も「かなしい」なんだ。万葉集の4500首あまりの中には「愛《あい》」や「愛《いと》しい」なんて言葉はひとつもなくて、愛も愛しさも、ずっとずっと後に取って付けたようにうまれてきたんだよ。でも私は「愛」という言葉が、50音のはじまりにいる2音で形作られているのがとても好きなんだ。そして「あい」はまた「哀」にもどってくるんだな、と言葉の宇宙に放り出されてしまう。ところで万葉集で「愛し」と書き表されるとき、それは「うつくし/うるはし」って読むんです――「結局見た目ってことですかね」と、巫山戯た私の零し言に、教授はまなじりをほっそりと緩めただけで。教授の研究室はやわらかい西日の差し込む部屋だった。あわいオレンジ色の夕焼けが一瞬だけ広がって、壁を埋め尽くす源氏物語平家物語古今和歌集を照らし、暮れた。愛しさとか悲しさとか目に見えないものについて考えるとき、本当は言葉なんて消して棄ててしまいたい。考えるには伝えるには在ることばでやりくりしなくてはいけないのがひらすらに不自由で、かなしい。どちらの?私の「かなしい」は、いつかみたあの一瞬の夕焼けにいっとう近いところにある気が、している。




参加させていただきました。鉱物のクラスターが好きなのでバナーにときめいてしまう。

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【観劇記録】『ピアニシモ』


あらすじ
透とヒカル。
どんな時もふたりは共にあり。ふたりは縛り合う。そうやって生きてきた。ふたり。
転校を繰り返す透は、高校3年のある日、その学校へ転校をしてきた。
澱んだ水たまりが日を受けて、甘酸っぱい匂いのするその場所で、彼はいじめに遭う。
ヒカルと共に灰色の街を彷徨い、マッチングアプリで出会ったのは地獄にいるという少女だった。
これは、とても柔らかく、殺されていく世界に生きる、ふたりの、物語。

ZOOMを使っての生配信朗読劇!BGMも生演奏!初めての体験でした。
ヒカルは透にしか視えないイマジナリーフレンドなのですが(冒頭で明かされるのでネタバレではない)、ZOOMの背景画像(でいいのかな)を活用したヒカル役・米原幸佑さんの画面の表現が面白かったです。生演奏のピアノの指先がみえるのも好きでした…。LINEの着信音や学校のチャイムがBGMに織り込まれていて、学校でないシーン(けれどクラスメイトたちが登場する後半のシーン)にチャイムが織り込まれていたのも「あばば…」となった。

今回上演する「ピアニシモ」は、1989年に第13回すばる文学賞集英社が主催する純文学の公募新人文学賞)を受賞し、翌年に発売された辻仁成の処女作。都会のコンクリートジャングルを彷徨う孤独な少年の心の荒廃と自立への闘いを描いた、新時代への青春小説だ 引用元

マッチングアプリは原作では「伝言ダイヤル」だったようです。教室の描写や駅のホームの空気感などの描写はかなり比喩が多くて、おそらくかなり原作を踏襲しているのかなと思います(一度きりの読み上げなので記憶に鮮明には残らないのですが、どれも納得感のある描写でした)。そして、30年経っても、いじめも自殺も未だ「社会問題」で、少年少女の、人間のいきぐるしさが少しも変わっていないことに、頭を強く殴られてしまう。

あらすじの通り、明るい物語ではないです。特に後半は透を取り巻く(透にはどうにもできない)環境が加速度的に悪化していくので、辛い人は辛いかもしれない。いや、私も辛かったのですが…。

いくつもの役を巧みに演じ分ける役者さんたちに圧倒されました。ZOOM配信なので、表情がくっきりみえるのと、誰が話しているのかわかりやすい(名前が出たり画像に縁取りがでたりする)のがありがたかったです。

透役の村井良大さんは前半の淡々とした感じと後半の堰を切ったような感情の発露のギャップに気圧されました。ヒカル役の米原幸佑さんは一番画面での動きが多くてついつい目が行ってしまって、そしてお顔が似てるわけでないのに「透だ」とも思わされるのが不思議でした。サキ役の小泉萌香さんは最後まで本心が見えない/見せない声の「透明さ」がまさにサキだった。祁答院雄貴さんの個性的な声、好きだな。小野川晶さんの声、特に母親のお声が心地よかった。若宮亮さんは地の文の読み上げが一番好き。板倉光隆さんの低いお声おやばかったな…「あのひと」は一体最後、何を思っていたのだろう。

物語が重めなので万人に「見て!」と言える物語ではありませんが、生の舞台を見る機会がほぼ失われているご時世にこうして私たちに舞台を届けてくださったことが本当に嬉しくて、ありがたくて。再演がよりたくさんの人に届きますように。

*memo*
PUBLIC∴GARDEN!オンラインリーディング公演vol.2『ピアニシモ』
上演台本・演出:元吉庸泰
キャスト:村井良大米原幸佑、小泉萌香、祁答院雄貴、小野川晶(虚構の劇団)、若宮亮(エムキチビート)、板倉光隆
音楽・ピアノ演奏:吉田能(あやめ十八番)
原作:辻仁成
参考:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000015.000030710.html


以下個人的なネタバレ感想メモ(箇条書き)

・共感する、というよりも過去の「もしかしたらの私」をみている感覚。駅のホームの白線の上、紙面に記された楽譜の上、境界線の淵に立つ感覚、踏み越えたい、踏み越えたくない…ぐるぐる、ふらふらとした足元の定まらない感じ。一歩踏み出した時、人はベビーカーのブレーキを外してしまったり、電車に飛び込んだり、ビルから飛び降りたり、人を殴ったりするのだろう。
・「バカに生きられたら」「透明になりたい」はサキの「本音」だと思う。サキの本当の姿は私たちに明かされなかったけれど、それがまた私は物語としては好きだなと思う。
・再生というには失ったものが多くて手放しに喜べない(し、サトル君大丈夫だったのだろうか…)けど、透にはいきていってほしい。
・ヒカルとの別れ、母が「あの女」から「母」になる、が透の変化の象徴だと思うんだけど、でもそれを「再生」と呼べるかは私的には微妙で、どちらかというと「それでも生きるしかない」というメッセージのように感じた。
・ヒカルとの別れは透が生きていくならかならず直面したと思うけれど、あのタイミングがベストだったのかと言われるとそうでない気もして、でもタイミングなんて図る前にその時は「来て」しまうんだよな…と思ったり。

【観劇記録】『Play a Life』

あらすじ
高校の教育実習で担当教員に好きな映画を尋ねられて、ロビン・ウィリアムズの『今を生きる』と答える教育実習生。
彼女の答えは担当指導教員に昔を思い出させた。
ロビン・ウィリアムズのファンであった二人は、ロビンがアカデミー賞にノミネートされた時にロビンの映画特集をしていた名画座で出会い、恋をして、夫婦になった。
彼女は映画に憧れて教師に、彼は俳優を志した。
いつの間にか妻は教師を辞めて、彼は高校の非常勤講師を務めるようになっていた。そして二人の生活の間には1匹の猫。
ひょんなことから教育実習生の恩師が小学校の教師だった妻だとわかる。
何が夫婦の生活を変えたのか?妻が教師を辞めた理由は?夫が教師になった理由は?
“今を生きる”というテーマが物語の結末を導き出していく。

パソコンで視聴していたのもあり、最初は「歌がたくさんだ」くらいのかなり漠然とした気持ちで観ていました。その漠然の中に漂っていた違和感の原因があるシーンで歌とともに明かされた瞬間、涙腺が崩壊してしまって、そこからもうずっと泣いてしたし、画面から目が離せなかったです。配信最終日の、しかも夜に観たのは失敗だったな。歌詞が、セリフが、頭からこぼれ落ちていってしまう。私の馬鹿め。再演があるなら現場で観たい。でもこの涙腺の具合だとずっとすすり泣き状態で周りに迷惑がかかりそう…。

誰もが自分の世界を生きていて、でもその自分の世界には誰かの世界が溶けている。そして誰かの世界にも、私が溶けている。人生と人生が交わって溶け合って、過去に誰かに溶けていった自分や大切な人のかけらが、いつか自分をすくいにきたりするのかも、しれない。死後の世界でも来世でもなく、「現実」の「生」の一点に話が絞られているのが果てしなく良かったです。

岸さんの立ち上がった時の存在感に毎回「うおっ」となってました(座ってると熊さんみたいで可愛い…と思っていました)。暗闇のシーンは声だけなのに一番胸に刺さりました。彩吹さんは歌声が力強くて、でも微笑みは本当に優しくてやわらかくて、好きでした。平川さんは役も、お声も、演技も、存在が光で、架け橋でした。3人、そして1時間とすこしと少しという短い劇とは思えない。濃い時間でした。あ、舞台セットがとても好きでした。学校の机と椅子ってなんであんなにノスタルジックなんだ。猫ちゃんの世界にもあのひとは「いた」のかな。やさしい物語でした。

*memo*
出演 岸祐二 彩吹真央 平川めぐみ
演奏 key 小澤時史
スタッフ
作・演出 上田一豪/作曲 小澤時史
照明 岩下由治/音響 高橋秀雄/美術 柴田麻衣子
証明助手 有岡幸子/音響オペレート 水木さやか
舞台監督 佐野眞介
Web 相澤祥子/制作 椛島
プロデューサー 柴田麻衣子

劇団ホームページ:http://www.tiptap.jp/


以下個人的なネタバレ感想メモ(箇条書き)


・歌って言葉を超えて感情を伝えてくるのはなんでなんだろう。最初は「歌長いな…」くらいの感じだったのに。プロローグとエピローグを重ねてくる構成、王道だけど大好きすぎて死んでしまう。同じだけど同じじゃない、人は変化していくのだ。
・岸さん彩吹さんの掛け合いの歌で「私には見えない」「僕には見える(うろ覚え」で奥さんの死が明かされるの、そこに至るまでの違和感の落とし込み方といい鮮やかだったな
・猫を嫌いな奥さんが猫を助けて亡くなってしまう、そしてその猫はいま2人の家にいる(間接的に2人をつないでいる)の泣いてしまう。きっと奥さんはチョークケースの落書きがなくても猫を助けただろうけど、でも猫が「好きになれそう」と感じたあの心は真実で、教育実習生もまた、奥さんに変化を与えていたのだな。生徒も教師も関係ない。人と人との交わり。泣く。
・小学校教師だった奥さんの教え子が、奥さんの言葉で救われて、未来で奥さんの携えて旦那さんの前に現れるの、時間差の手紙のようであまりに愛おしいし、人が生きて人と関わって行くってこういうことなんだな、と思う。
・教育実習生の「霊が見える」発言、冷や冷やしたけど、安易に奥さんが見えるとか聞こえるの展開にならなくてよかった。最後まで奥さんが見えない存在なの、良かったな…。奥さんと教育実習生の噛み合ってない言葉が、でも2人の人生の交わりを通じて1本の糸に収束して真実になっていくの、震えたし、奥さんの人生を知っている旦那さんにとってもまごうことなく「真実」だと感じられただろう。
・旦那さんが「自分の世界で、奥さんが《いる》かぎり《いる》んだ」(意訳)って言葉、強がりであり芝居である一方で、これはもう本当だったんだと思う(ちょうど前の記事でそういう存在の話をしていたので、興味深かった)。私がいると感じるかぎりいるのだ。これは私の世界なのだから。