KANGEKI-LOG

観劇とか感激とか思考の吐き出しとか

【観劇記録】 そよ風と魔女たちとマクベスと

 やっと、やっと生観劇できる日が帰ってきた…!と、喜びを噛み締めながら8ヶ月ぶりに劇場に足を運びました。シェイクスピアの「マクベス」を下敷きにした「そよ風と魔女たちとマクベスと」初日(松本公演は11日まで)。
 前半はネタバレなしの感想です。

『そよ風と魔女たちとマクベスと』 | まつもと市民芸術館 www.mpac.jp

 まつもと市民芸術館の特設会場、コロナ対策で空けた席には市民らから募ったダンボールの観客「ペーパーピーポー」がいるんですけど、私の左にはオラフが右には笑顔の女の子がいました。こう言うの良いよね。2列目ほぼ中央で観劇。

客席に座る“ペイパーピーポー(紙の観客)”の様子。(撮影:山田毅) [画像ギャラリー 4/10] - ステージナタリー 客席に座る“ペイパーピーポー(紙の観客)”の様子。(撮影:山田毅) - 串田和美「僕たちにとっては満席です」TCアルプ×小 natalie.mu

 タイトルやフライヤーからファンタジー/絵本感を感じていたのですが、筋書きはごりごりにストレートな「マクベス」でした(その辺は観劇後に監督インタビューを拝読して納得&舞台を見て感じたことに対する確信を得る。個人的には観劇後読むの推奨!)。

 開幕前、奥行きのある特設舞台の奥から鳥の囀りに混じって金属が打ち合うような音が聞こえる。目の前には緞帳ではなく、カーテンがつけられた木枠。枠にはローラーが付いているので劇中あちこちに稼働して、カーテンの向こうで演者が入れ替わり、ふいに現れたりして「おっ」となる。

 影絵のような演出も好きでした。一箇所から照らして明確な絵を映しだすのではなく、いくつかの光を当てることで複数の影が現れる趣向で、不安定感とざわめき感がある。光といえば、王位簒奪後のマクベスと夫人を一方向から照らす場面があって、そこでは光と影がとても鮮明に分かたれていて印象的でした。そうそうこれが舞台…これが演出…。

 個人的な見所は、マクベスに運命を告げる「魔女」「たち」の存在と、「女(の股)から生まれた者にマクベスは殺せない」に対する、マグダフのアンサー。監督もインビューで触れていらした部分でした。予備知識なしで観て驚くタイプの舞台というより、マクベスの筋書きを押さえておくことで没頭できる舞台だと思います。とはいえわたしはwikiと以前見た「M夫人の回想」くらいの知識しかなかったですが…それでも十二分に楽しみめました!

 「マクベス」、長く長く演じられ続けてきた戯曲だからこそ、筋書きこそ変わらずとも、きっとその時代時代の物語や人物の「マクベス」が存在していたのだろうな、と。そして、フィクションは現実からは切り離せないものなのだと改めて感じます。だからこそ、面白い。

 コロナ対策で多少客席と舞台の距離を空けているとはいえ、役者さんの表情から額に光る汗までしっかり見えて、音があちこちから耳に飛んでくるのがもうほんと「生」で。このコロナ禍の中、この舞台を届けるために尽力してくださったすべての方に感謝を。人間、声、音、呼吸、演出、あらゆるものが一度きりで交差する、奇跡のような空間にまた足を運べて嬉しかったです。ありがとうございました。

*memo*
原作 W・シェイクスピアマクベス」より
脚色・演出・美術・
照明・衣裳 串田和美
出演 草光純太、近藤隼、下地尚子、武居卓、田村真央、深沢豊、細川貴司、
毛利悟巳、串田和美

以下はネタバレ初見感想(考察未満の書き散らし)
・「魔女」に男性が自然に組み込まれてるのが個人的にすごく印象的でした。そして、ワンピースっていまし男性が着てもなんら違和感ない。発見。なびく裾は「風」の象徴でもあるようで、それがマクベスには与えられていなかったのも頭に残る。
・劇場では「ワンピースを身にまとう男性」に対しての笑いがごく少数ながらあったように感じたけれど、もうそういう感覚古いよなーと。少なくともあの舞台では男性女性関係なく「魔女」であり「そよ風」。
マクベス以外は全員「魔女」の役をしているわけですが、なんとなく風というのが古来から「魂/精神(Pneuma)」と関連づけられてきたように、この物語の「そよ風」もそういう存在なのかなと思いました。私のかけらとあなたのかけら、すべての集合体。噂話とか人の念みたいな物にも感じる。
・タイトル、「マクベスと」の最後の「と」のあとには「わたし(観客)」たちが含まれるような、そんな気が。
・この作品のマクベスは傍目からみるとけして孤独ではなかったように見えて、王位(栄誉)も妻(愛)もかつては友人もいたのに、それらを結果的に「認識しなくなった」のはマクベスだったんじゃないかと。人は他人に認識されて初めて存在できる、といった趣旨の場面があったと思うのですが、マクベス夫人が子供を幻視したのも、マクベスに認識されなくなったが故じゃないかなとか。あと、序盤で夫人のお腹にマクベスが頭を当てて胎児のように丸々シーンが、2人がラブラブしてたシーンよりも印象的だった。あの時、マクベスの一部が夫人の胎の中にかえっていったような気すらした。
・幕間みたいなメタ場面も張り詰めていた空気が一瞬緩んで、そしてあくまでもこの舞台はただの戯曲ではなく今この時の「現実」と地続きの場所にあるのだと実感した。
・バンクォーの亡霊が祝いの席に現れる場面、諸侯が瓶なのとシャンデリア降りてくるのが好きだったな。あの小道具アップでみた�� �です…(表情が気になる)。あとテーブルがあとで立てられて照明になるのも好き…。
・マクダフの妻と子どもの会話シーンで、その後の展開がわかってるからこそ泣きそうになった。子供のお人形の足パタパタするの可愛い。
・「怒り」から生まれたマグダフ。原作では「帝王切開(だから女の股からは生まれていない」だった部分を「怒り」に解釈するのは、今の社会に当てはめても色々と想像が広がります。
・最初剣がぶつかった時効果音つけてるのかと思ったらガチの衝突音でしたね…。これで思い出されたのが開幕前に流れていたBGMの鳥のさえずりに混ざっていた金属音(と私は感じた)でした。火花散るのも「生!」って感じで、客席も息を飲んでる空気が伝わってきてどきどきしました。
・最後、暗転して、まるで子供時代に戻っていくような、寝しなに物語を語られているかのような「ロングロングアゴー(昔々)」の繰り返し。この物語はマクベスの死によって幕を引かない、むしろまた最初に戻る、繰り返すような、闇から小さな黒点に縮小されていく、遠のいていくような、そういう舞台なのだなとまだまとまっていないのですが感じました。
・もう一度見れば解像度もっと上がるかなと思ったのですが、仕事…残念。

また何か思い出したら追記します。11月は、真夏の夜の夢