KANGEKI-LOG

観劇とか感激とか思考の吐き出しとか

「可愛いものが好き」と表明したら「私」は死ぬ気がしていた

 「可愛いものが好き」と表だって言えない子供だった。親にも、友達にも。男子に混じって、駆け回って泥だらけになって遊ぶのがいっとう好きだった。でも同時に、ディズニープリンセスのドレスにも、おジャ魔女どれみの魔法アイテムにも憧れていた。パステルカラーでフリルのついた砂糖菓子みたいな服や、ペンケースも、本当は欲しかった気がする。でも、「可愛いもの」に対して、私はいつでも慎重だった。

 アラサーになった今、私の中の「可愛いもの」に対する慎重さについて考えてみたとき思いあたったのは、私にとっての「可愛いもの」は、イコール、「他人に自分を『女の子/女性』と判別させるもの」なのだ、ということだった。

 私の性自認はまごうことなく「女性」だ。心と体の性も一致している。「じゃあ良いじゃん」と思われるかも知れないが、そうじゃない。

 「可愛いもの=女の子/女性らしいものが好きな私」を、ひいては「女である」と他者に表明すること――相手にそう認識されることは、私にとって幼いころからこの方、弱点や急所を相手に曝け出すのと同等の行為だった(ということにも最近気付いた)。その危機感が形成されたのは、幼いころ、父(男性)に逆らうことのできない母(女性)を見ていたからかも知れないし、私以外男子だらけの幼馴染み集団につまはじきにされたくなかったかも知れないし(結果的に、今は私だけ疎遠になっている)、学校や社会生活の積み重ねの中で構築されていったのかも知れない。

 重ねて言うと、私の性自認はどこまでも「女性」だ。でも他人に「女性」扱いされたとき、私は酷く傷つく。「女性」として見られた瞬間、私は、私という存在は、「個人/人間」として見られてない/扱われていない、死んでしまった、と感じる。それが耐えがたく苦痛で、受け入れがたい。

 異性に好意らしき感情を向けられると、言いようのない気持ち悪さを覚え、極端なまでに距離を置く癖があって、それが長年、自分でも疑問だった。「好きだな」と思った人に対しても同じで、むしろ好きな人にこそ、「異性に対しての好意/興味(らしき感情)」を向けられた時の絶望感と失望感は凄まじかった。その感覚も、結局は上記のことがらに起因するのだと思う。

 でも先日、小さなブレイクスルー(と言えるほどでもないけど、小さな転機)があって、だから今は私はnoteを開いている。

 髪を数年ぶりにベリーショートにした。特に何があったわけでもないのだけれど、美容室の椅子に座った時に唐突に「切ろう」と思い至って、お願いした。6年間通っている美容室は客席が三つだけの小さなお店で、秘密基地のような店内に、アンティークめいた鏡と椅子があって、ドライフラワーや流木が飾られている。いつも自分の髪型も色も決められず「さっぱりして染め直したい」とだけ伝える私の珍しい注文に、ハサミを手にした店長はちょっと驚いていた。

 今までベリーショートにした時、私はずいぶんこざっぱりした自分を鏡で見て毎回、「男みたい」と思っていた。そこには安堵と、一抹の寂しさのようなものがあった。自分に対して「男めいた振る舞いをしなくては」と思っていたところがあったし、周りにもそういう振る舞いを求められているような気が勝手にしていた。

 でも、今回は違った。鏡を見た時、憑き物が落ちたように「あ、私がいる」と思った。髪も染めていたから、黒髪で切っていた今までと印象が違っていたのもあるかも知れない。でも、今までにない軽やかな気持ちで「私だ」と思った。そして、自分が今までずっと、女らしく見られることも、男のように見られることも嫌だったことに明確に気が付いた。私はずっとずっと、ただ「私」として在りたかったし、他者にも「私」を見て欲しかった。

 でもそれがすごく難しいことだというのも、わかっている。私自身だって、他人をそのままの存在/個人として見ていないときは思っている以上にたくさんあるのだろう。でも、私が私であることを、私が「私」以外で定義されることへの抵抗を、諦めたくないと思う(もちろん、他人に対しても)。

 ベリーショートにしたら会社の人にも「イメチェンだね」驚かれたけれど、誰にも「ボーイッシュになったね」とか「少年みたい」とか、今まで聞いたことのあるような言葉をかけられなかった。大人だし、仕事の付き合いというのもあるだろうけれど、それにとても救われた。「似合ってるね」の言葉が、今までになく素直に受け入れられた。嬉しかった。

 ベリーショートにしたら、ピアスがよく映えるようになった。ピンクトルマリン、パール。気分のままに「可愛い」と感じるものも装ってみる。もちろんそれ以外のものも。何をつけても、鏡を覗けばそこには「私」がいる。確かめるように「私だ」と思う。

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 同級生が結婚をしたり、子供を産んだり育てたり、と人生の転機を迎える中で、私はすごくその手前でまごまごして悩んで頭を抱えているのだけれど、それでも、幼い頃からずっと握りしめて手のひらの中で凝り固まってしまったものを、年を重ねるにつれてほぐしてはいけているような気がする。 
 人を好きになることも好きになられることも、愛することも愛されることも全部全部ままならないけれど、少しずつ、息がしやすい方に向かっていけたらと思っている。