KANGEKI-LOG

観劇とか感激とか思考の吐き出しとか

【備忘録】フィンガーフードの相対性理論

 HOME10周年記念公演「フィンガーフードの相対性理論」、2日間全4公演、ご観劇下さった皆さま、ありがとうございました!instagtamにも色々書きましたが(若干重複してます)、ブログでも改めて。

 本当に、本当に楽しかったです。それもこれも、観てくださった方、私の拙さを芝居の中でフォローしてくださった役者の皆様のおかげです。感謝、感謝です。

公演チラシ。制作お手伝いしました

 

公演について

 公演場所は信濃ギャラリー。1階と2階で、内容がリンクした二つの物語が同時進行する。お客さんは1公演につきどちらかしか見られない。1階は怪しいスピリチュアルセミナー、2階は死んだ魂が行き着く場所。一部の役が1階と2階を行き来する。生者と死者が交錯し、後悔や心残りを一つずつ、手放していく。

登場人物の名前は「おつまみ=フィンガーフード」に因んだネーミングになっている。

チラシのあらすじ部分

 

自分の役「伊香先サチコ」のこと 

 設定を頂いた時の第一印象は「ヤバそうな人だ…!」でした。だってなんかヤバい宗教?にハマりこんでいるし、事務局長とかやっちゃってる。昨秋、如月ジロー先生の脚本で演じた「陸之雷知」も頭のおかしい人だったので(今回も頭のおかしい人じゃん!)と思ったし、しばらくは何をどうやっても陸之になるので困ってました。別人なのにね!頭のおかしい人のレパートリーが少ない。

 サチコは、兄を亡くした女性です。そして兄の死の原因は、自分にあると思っている。喪失感や自責の念にさいなまれて生きている。そんな彼女は、グッドヒーリングセンスと伊集院聖子に出会い、喪失感や自責から解放されます。でもそれは表向きのことで、実際は内側にあるものを見てみぬふりをしてるだけ。その歪みが挙動にも現れて、洗脳されているような、意識が遠くに持ってかれているような「頭のおかしい人」感が言動ににじみ出ている。

 難しかったです。私、この年になってもなお、身近な人を亡くしたことがなくて。祖父母は両家健在だし、犬とか猫も飼ったことない。あと長女なので兄も姉もいない。喪失感がびっくりするほどわからない。ほんとう、公演一週間前とかになってもまだわからなくて、ぴしゃりとお叱りの一言もいただき、迷走してました。

 役者が涙を流す芝居(あるいは涙を流せる役者)、というのが必ずしも「良い芝居(役者)」ではないことは重々承知している一方で、少なくとも兄との再会でサチコが泣かないなら、それこそ「嘘の芝居」だろう、という気持ちもあり。

 サチコの背景を色々考えてました。風邪を引くといつもお兄ちゃんが看病してくれたんだろうな。だとすると、両親は忙しい人だったのかな。リンゴ農家とかも良いかもしれない。風邪の時に食べる刷りリンゴは実家の味だったとか…と、もはやどうでも良いことまでぐるぐる。お兄ちゃんが大好きで、結構なブラコンだったんだろうな。お兄ちゃんも「めんどくせー」って顔しながらなんだかんだめためたに甘やかしてたんだろうな。でも「喪失感」は自分の中にはなかなか生じて来なくて、全然サチコに寄り添えなかった。

 一つの転機が、煮詰まって駆け込んだ1人カラオケで。そこで大塚愛の「プラネタリウム」を歌ってみたら、途中でぶわっと、コウに手を引かれる小さなサチコの絵が浮かんで来たんですね。そしたらなんか「もうこの光景はどこにもないし、再現もできないんだ」って気持ちになって、ぐしょぐしょに泣いてしまって(歌の力ってすごいな)。歌っては台詞を言う、歌っては台詞を言う、を狂ったように繰り返して「これは何かをつかんだのでは…!?」と意気揚々と稽古に向かったんですけど、まあ、駄目で。駄目と言っても、何かがこう「出かってる」感じはするんですけど、出ない。つかめそうなのに、つかめない。そのまま本番当日。

 1ステはもはや何も覚えてないレベル。でも、指輪の下りを話したときに猛烈に悲しくなってしまって、その時点で勝手に声が震えて動揺し、そのあと再開で突然涙が出たことにおよよよよとなってた(慌てた)。2ステではまさかの冒頭の台詞が吹っ飛ぶ。3ステは思ってた以上に顔面がぐしょぐしょになってしまって焦り「一瞬素の自分に戻ってた(フミエさん談)」になってしまい。4ステでは突然むせてしまってびっくりした…。声が掠れて出なくなったらどうしようと内心焦ってたんですけれども、持ち直せて良かった。宇宙悪魔とかが私を攻撃してきたんですね、多分。個人的には4ステ目が一番、出したいものを出せたかなと思っています(もちろん、反省点は多々あるけれど)。

 全公演で言ったかは自信ないのですが、コウに抱きついて言った「ごめんね、ありがとう」は脚本にはなくて、本番に自然と出てきた言葉でした。思い返せばそれは、ジャキ君(死者)がサラさん(生者)に宛てたメッセージとも一緒で。生きてる人も、死んだ人も、大切な人に伝えたいことはたくさんあって、でも結局絞り出せるのは、この二つなのかも知れないな、なんてことを今は思ったりします。

 私は役の中で一番、お客さんに絡める役だったのですが、いかんせん動きのパターンが少なくて、パイプかパイプユニッシュ()をぶんぶん振りながら右から左までを移動するみたいなのを延々とやり続けていて…すまない…笑ってくれた方ありがとう…。観て下さる方がいるから、お芝居って完成するんだなと身をもって思いました。感謝。

 

小道具のこと

  今回の公演は照明も音響もなし(2階は少しだけBGM入りましたが)で、大道具も2階のどこでもドアくらい。本番を前に、私にも何かできることはないかなぁ…って考えてたときに「パイプだ!!」となりました。なんてったって、少なくとも一つは「芯(パイプなのに芯って何)には不死鳥の尾羽を使い、本体には特殊な塩ビを用いたパイプ」ですから。その1本くらいはふさわしい装いにしなくては…という使命感に駆られ、仕事の合間に100均に駆け込む。なんか銀色っぽくてキラキラしたシールとかシートを買って稽古場に持っていったら、他のパイプもどんどんみんなで飾り付けることになって。キラキラ~になりました。あんなに物をデコった経験今までなかった。楽しかった。来世はパイプ職人になろうと思います。

 あと「人生を激変する 伊集院聖子10000の言葉」(のカバー)を本番前日に作りました。勢いで。前説後に手持ち無沙汰になるのと、公演中万が一1階と2階でタイムラグが発生した際、芝居のネタにしてもらえればと思って作った小道具でした。オビに使った男性の写真は、フリー写真素材サイト(写真AC)で「おじさん 外国人」で検索して出てきたものです。全体的なデザインは、そこはかとない自費出版感が売りです。前説時点から興味を示してくれた方もいて、嬉しかったです。

 そういえば、公演中の「聖子先生語録その●●●」の番号は、両親の誕生日と私の誕生日にしました。忘れるので。最後の公演だけ獣の数字を出しました。

 私の思いつきを温かく「いいよー」って言って下さった座組の皆さん、ありがとうございました。作るの楽しかったです。

小道具。水色のパイプは指輪を引っかける爪をコウさんが内側に付けてくれました

 

座組の皆さんへ

個人的なメッセージ。プライバシー保護のため役名で。

美牛サラさん

 劇中での絡みが多かったのもあり、たくさんお世話になりました。私の芝居が安定せず、毎回ころころ変わるので、合わせていくのがすごく大変だったのではと…思います…(陳謝)。サラさんのお芝居には芯の強さがあって、それがサラと重なる瞬間がとても好きでした。あと笑った時にふっと緩まる目元と「バカ」の時の言葉の響き。あと本番、ステを経るごとにジャキへの手紙を読む声がどんどん深まっていく感じがして、私もジャキのことが好きだなあって思いました。

 

美牛ジャキさん

 それぞれ1階固定、2階固定の役だったので脚本上の絡みは皆無でしたが、私がサチコに寄り添えたのは、本番前にジャキ&サラのシーンを見られたからだと思っています。ジャキ君の「俺なんか忘れて早く幸せになれよ」とか「もう、帰りな」があんまりに優しくて、不器用で。そんな彼だからサラは好きになっちゃったんだろうなと。たったそこだけのお芝居でも全部、わかっちゃいました。ジャキさんのお芝居、今度は最初から最後まで観たいです(とはいえ「箱庭迷宮」実は観に行ってました!)。

 

折部ルイさん

 ルイさんのお芝居やまなざしに感じたのは「心」でした。心には力がある、言葉がなくても形がなくても何かを手渡すことができる――そう信じている、あるいはそう信じたいという、ある種の気迫というかパワーというか……そういうものを感じていました。私が頭を抱えてるときにサチコの内側を言葉にして掘り下げてくれたり、劇中でもぐいっとサチコを引き上げてくれてありがとうございました。あわよくばこれから少しずつ敬語を脱却してなれなれしくしたいです。

 

柿種ナツさん

 本番中1回、ナツさんの「先生は霊の声を聞いているの~」に反応しかけ、慌てて取り繕いました(取り繕えてなかったかもしれない)。ナツさんの声や立ち振る舞いには強い存在感があって(幽霊だけど)、見えてないように振る舞うのが大変でした!笑 「いかさんフフッ」大好き。役としての絡みはなかったけれど、お稽古でふとしたときに笑いかけてくれたり、くっついてくれたりしてくれるのが嬉しかったです。あと、銀パイプ持ち帰って下さってありがとうございました…!!

 

大天使さん

 色んな人にたくさんイジられたね!大天使さんはもうなんか「存在が面白い」が座組の共通認識になってて、その期待に応えなきゃいけない部分とか、でも応え過ぎてしまうと「控えめに」にって言われる部分とか、色々な塩梅が、本人・役ともにとても難しかったのではと思います。大天使さんのどの役をやってもにじみ出てくる個性と、これからはそこに付加されるキャラクター性、両方を楽しみにしてます。12月頑張れ~!そしてスカート、すっかり定着したね~。

 

小天使さん

 小天使さんの「いっけなーい殺意殺意」をまともに聞く機会がなかったのが、この公演の大きな心残りです…。小天使さんは、感情を込めた台詞というよりあえて棒っぽくする台詞が結構あって、難しそうだなあとひそかに思っていました。でもそこにばっちりハマってて、すごいなあってなっていた。「可愛い」はもちろん、この先、色々な役の小天使さんを観られるのを楽しみにしてます。一緒に色々なワークショップやカフェも巡りましょ~ディズニーカラオケもしましょうね~!

 

リナさん

 リナさんの静かな闘志というか、朴訥とした雰囲気の中にちゃんと野心がある感じが好きだし、本当の意味でタフネスだなと思っています。忙しい中稽古に来てきっちり何を得た物を持ち帰っていく感じ、すごい。「わぁ!」に悩む姿が可愛かったし、安易に椅子を転がしたくないという強い意志を勝手に受け取っていた…笑 裏方として人を支えるのも似合ってるけど、やっぱりででーんと芝居してるリナさんが観たいなあというのが私の本音。また一緒に掛け合いしたいな!

 

フミエさん

 縁の下の力持ちとはフミエさんのこと…!と節々で思っていました。誰もが大変と思っていることを、誰も見ていないところできちっきちっと進めていく。いつもお芝居を客観的に観ていてくれていて、いただく言葉には時々恥ずかしくて情けなくて頭抱えたくなることもあったのですが、おかげで少しずつ修正したり、考えたりで前に進む箏ができました。そして最後の最後「その本あんま売れてないよね」のアドリブについ反応しちゃってすみませんでした。笑

 

伊香先コウさん

 「劇中夢」に続きお世話になりました。私の集中力と役への深度が本番直前まであまりにぱっとせずやきもきさせたのではと思います(陳謝)。コウさんのお芝居のおかげで、特に3、4ステは本当に「兄妹」になれたなと手応えがありました。厳しいも優しい、大好きな「お兄ちゃん」が目の前にいて、サチコがちゃんと、自分の内側からわき上がるものから泣いてました。最後の最後に、サチコに寄りそってあげられる芝居ができて、嬉しかったです。また色々、お芝居のこと教えていただきたいです。

 

伊集院聖子さん

 演出、役者…と1人何役もこなされる聖子さん。ご負担を掛けている身でもあったので、倒れてしまわれないかハラハラしていました。本当に、お疲れさまでした。聖子さんの芝居は自由奔放に見えてすごく緻密というか、全神経を使っている印象があります。すごく心身に負荷がかかっていそう。でも全力で芝居に生きることを楽しまれている。観た誰もにそれが伝わる。そんな聖子さんのお芝居が好きです。私もアドリブに応えられる柔軟な役者になりたいなあ…と思いつつ。聖子先生のキャラは強烈で、やもすれば怪しい宗教団体の怪しい教祖のはずなのに、憎めないというか、後ろ暗さを感じさせないというか、あのあっけらかんとした感じがとっても好きです。たくさん元気をもらいました。今回の公演にお声掛けいただけて、HOMEにも入居させていただいて、たくさん気に掛けて下さって本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

 

 

【観劇記録】寅年だらけの2人芝居60分勝負!

 作田令子さんと神戸カナさんの2人芝居「寅年だらけの2人芝居60分勝負!」を観てきました。お二方が並ぶ芝居を観るのは、昨年8月に長野市で上演された「劇団ココロワ」さんの「フラグメントファンタジー」での客演が初で、今回が2回目。

 「フラグメント-」で演じられていた悪役の、作田さんの苛烈かつ強い女に見えその実情の深さが垣間見えるところや、神戸さんの表情や声音が千変万化する道化的なつかみ所のなさと軽妙さが好きで、2人芝居を打たれると聞いてからとても楽しみにしていました。

 会場は「カニバル!!!!」さんの公演「I will always remember you」でも伺った信濃ギャラリー。

 

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 当日見るまでの情報は「どうやら公演形式はイマーシブシアター(没入型・体験型演劇)らしいぞ」だけ。

イマーシブ・シアターとは、2000年代にロンドンから始まった“体験型演劇作品“の総称。旧来の「観客が客席に座り、舞台上の演者を鑑賞する」という構図を打破し、新たな作品と観客の関係性を作り出す公演となっています。

つまり何が ”イマーシブ(immersive)=没入型” なのかですが、固定された座席や舞台はなく、お客さんが建物内を自由に回遊しながら鑑賞する、このスタイルが一般的な演劇と大きく異なる点となります。

引用元:

note.com

 

 開演30分前に客入れ開始。その時点で、すでに入り口正面(会場奥)では手足を椅子に縛られた役者(作田さん)が寝ている(時々ぴくってしたり動いたりする)。なんか服や靴に血みたいなのついてる。役者の後ろには鏡。床には衣服や靴、衣料品店などの紙袋、紙が散らばっている。壁には教典の一節のような文章が書かれた大きな紙やA4用紙が張られ、窓や鏡にはペンで書き込みがされている。あちこちに文字、文字、文字。中央には2台のビデオカメラ(実は鏡の上にもある)。客席は両側の壁沿いに5つずつ並んでいる。

 

 この公演の特徴は

・観客も劇中で「チルドレン」という存在として扱われ、拘束された人物を監視したり、役者を手伝ったりする役目がある。

・会場が2階建ての建物。1階と2階、1階の大部屋と台所、など、2カ所で芝居が同時進行する場面が複数回ある。観客は時に指示に従い、時に自分で役者に追随し、観る場面/観ない場面を選ぶ。’(終演後には会場を自由に見て回れる)

・結末が複数パターンあることが最後に明かされる。この結末は劇中での観客の選択によって決まる。

 というもので、私は初日の昼・夜の2公演を鑑賞しました。自分が立ち会えなかった場面、立ち会えた場面、2階から響く足音やドアの向こうから聞こえる声。複数回見た方が得られる情報量や選択肢が増える感じです。個人的には2回見て良かった~(できればもう1回見たかったけれども)。

 余談も余談ですが、ここ数か月わりとずっと「私が『観て良かった』って感じる舞台ってなんだろう」っていうのを考えていたのですけれど、現時点での答えみたいなものが「自分という観客が『舞台に必要とされた』と思わせてくれる/感じさせてくれる舞台」だったんですよね。他でもない「私」がその舞台を、観たこと、立ち会ったこと、目撃者になったこと、あの場にいたこと、とかに意味を見いだせる/感じる舞台というか。イマーシブシアターはそれをすごくストレートに満たしてくれる手法だなあと感じました。楽しかった。

 

 同じ舞台(演目)を複数回観るときの目的って、不変の情報(伏線など)の確認と、その上での役者の芝居の再現不可の偶発性などを楽しむため、とかがあると思うんですど、イマーシブシアターはプラスして、観客に能動的な選択権が与えられるんだなぁ、と。「わからない」も含めて自分の選択と体験だと納得できるというか。観られなかった部分、触れられなかった情報に思いをはせるのも悪くないな、と。

 一度目で見えていなかった部分を、二度目は自分の選択で補完していくのも楽しい。それは受動的な観劇というより能動的な体験に近くて、知った情報をどうするか(他人に開示するか、ほのめかすか、黙秘するか)考えているとき、観客もまた役者になってるっている感じがしました。楽しかったです(大事なことなので2回)。

 

 後日YouTubeで公開されるそうです!やったー!

 

 

 

 以下ネタバレに配慮しない箇条書き。考察はしてない。

 

・舞台美術、鏡が特に良い役割を担ってるなーってなりました。椅子に座ってる役者と対面する役者、あと何より客席の表情がわかるのが良い。思えば私が鏡越しに見ていた相手も鏡越しに私が見えているわけで、カメラ以外でも「監視」しあってたんだなあと。あと空間に奥行きがでるのも良い。

・オペ卓が裏にあるのも驚いたし、オペ卓も「監視」という役割でがっちり舞台装置として機能してるのアツかった~。貼られたり置かれたりしたヒントをみるのも楽しい。なんかディズニーのミッキーとかミニーの家に言った時の感覚になった。

・表情やまなざしが見える距離で見る芝居良いな~ってなりました。役者さんがマスクをせざるをえない現環境だと特に。作田さんも神戸さんも目力というか目でも伝わる演技がすごい。目と言うよりも顔全体の筋肉や、前髪の掛かり方とかもなのかな。眉間のしわとかまぶたの開き具合とか、こんなに人の感情や性格って目の周りで表現できるんだな、となっていました。

・神戸さんの、厳格なカメリアと幼げなデイジーの演じ分けどきどきした~。特にデイジーの時のきょとんとした表情が好きです。2ステめ、カメリアもデイジーも靴をはき忘れそうになってたの、そういう芝居だったのか素だったのか地味に気になった。カメリアの「夜の私はだめね…」みたいな呟きが好きでした。

・作田さんのローズ、最初はそりゃ拘束されてればおびえるよね…かわいそ…と思っていたのが、それすらも実は演技だった(自ら捕まって隙を伺っていた)っていうのがびっくりで、カメリアに対してはわりと弱々しく従順だったのに、デイジーに対しては冷たく目下に見ているような対応で「こ、この女~!」ってなっていた。笑 ローレルの性格は対デイジーの方が素に近いのかな。

・教団のロゴかっこよい!「MAMA」の文字が組み合わさってて、秘密結社感すごい。手紙(カード)欲しかったので、2ステ目で渡してもらえて「わっほーい」ってなっていました。

・教団が現実世界の喧騒とも諍いとも事件とも切り離されて存在してるっていうのが、逆に本当に実在性を感じてしまうのが面白いなあと。壁に書かれていた教典的な文章の中に、認識されていないものは存在しないのと同じだという文意のものがあったような気がするんですけど、確かになあとなったりしていた。あちこちに貼られたツイートも、知っている人のはわかっても、知らない人のものはただの文章に過ぎない。認識についてもぼんやり、いろいろ考えていました。

・花の名前っていいですよね。和名も好き。花はいずれ散るもの、儚いもの、の象徴でもあり、何度でも咲き未来に続いていく(輪廻する)ものでもある。劇中夢(の中の劇中夢)のことも思い出したりしていた。あとLILIUM。

信濃ギャラリー、大きさ的にもめちゃくちゃイマーシブシアター向きだなあって思ったので1年に1回くらいのペースでやってほしい…再演でもいい…12年後まで待てません…お願いします…(あるいは次は卯年の人がやればいいのか…?)。

・くぼっちさん、セバスチャンさん、あゆみさん、ふみえさんもお疲れ様でした…!素敵な舞台をありがとうございました。

 

また随時追記します。

 

【映画感想】アイの歌声を聴かせて

ainouta.jp

観てきました。良かった!
AI×ミュージカル×正統派青春群像劇でした。セカイ系ではなく、あくまでもシオンを取り巻く等身大の高校生たちの日常の延長線上にある、彼らしか「ほんとう」を知らない、けれど彼らにとってはかけがえのないものになる数日の出来事って感じの規模感も良かった。

景部高等学校に転入してきた謎の美少女、シオン(cv土屋太鳳)は抜群の運動神経と天真爛漫な性格で学校の人気者になるが…実は試験中の【AI】だった!
シオンはクラスでいつもひとりぼっちのサトミ(cv福原遥)の前で突然歌い出し、思いもよらない方法でサトミの“幸せ”を叶えようとする。 

彼女がAIであることを知ってしまったサトミと、幼馴染で機械マニアのトウマ(cv工藤阿須加)、人気NO.1イケメンのゴッちゃん(cv興津和幸)、気の強いアヤ(cv小松未可子)、柔道部員のサンダー(cv日野聡)たちは、シオンに振り回されながらも、ひたむきな姿とその歌声に心動かされていく。

 AIであるシオン役の土屋太鳳さんの芝居が、すごい。

 シオンの話し方は、きちんとロボットなんですよ。明らかに人間じゃないの。でも棒読みでも無機質でもない。彼女に接した人たちが彼女に「人間と同じ心」があるんじゃないかと思ってしまうのがわかる、絶妙な塩梅と温度感。それでいて物語のキーの一つになってる「歌」がめちゃくちゃ心地よい。シオンは突然歌い出すんですけど、周りがちゃんと戸惑ってるのも面白い。最初の曲「ユー・ニード・ア・フレンド」では、シオンが校内のシスタムに介入して、放送スピーカーが音楽を奏で、電子黒板に楽譜が現れる。めっちゃ楽しいシーンだった。好き。

t.co

 劇中歌で一番好きな曲。聞いて。

 シオンが紆余曲折あって、なかなか本番で勝てない柔道部員の少年・サンダーの乱取りに付き合うシーンで歌い出す曲なんですけど、乱取りを舞踏会に例えながらのビックバンドにのせての歌唱、あまりに楽しい。あとこのシーンのシオンの表情がめちゃくちゃいい。

 表情といえば、キャラクター原案が紀伊カンナさんなんですけど、キャラデザの島村秀一さんが紀伊さんの描く生き生きとした人間の表情を、損なうことなくアニメの絵として落とし込んでくれててめちゃくちゃ良いです。紀伊さんの漫画好きな人にも見て欲しい。特にサトミとトウマが好きだな。紀伊さんの描く絵のショートカットの頭の丸みが好きなの。

 話があっちこっちにとっ散らかってますが。

 これはもう多くの人が言及してるんですけど、シオンの行動原理は徹頭徹尾、人間の「命令」なんですよ。命令がないと彼女は動けないんです。どこまでもAI。でも、前述の通り、彼女に接した人間は、彼女の行動に、表情に、歌声に、心を見出していく。シオンはただのAIじゃない(私たちと同じ)、と思うようになるし、彼女から受け取ったもので自身もまた変化していく。その書き方が本当に秀逸だなと思いました。

 監督は以前にも「イヴの時間」というAI(アンドロイド)をテーマにした映像作品を手がけていて、私はこの作品がめちゃくちゃ好きなんですけど。イヴのときは「アンドロイドにも人間と同じ心(大切な誰かのために動きたい意思)がある」というテーマめいたものが根底にあったと思うんですが、アイでAIはあくまでもAI(人間とは違う)、けれどそのAIの言動を受け取る人間は何を見出すのか、ってところがアツかったです。受け取るといえば「AIが人間の命令をどう受け取るか」というところにも焦点が当てられてて、そこもまた物語のキーになってる。

 あと世界観も好きです。日本家屋があり田園が広がる田舎めいた風景のなかに、当たり前のようにAIが組み込まれている。朝はカーテンが自動で開けられて、住民の生活は記録されてて、田んぼではロボットが田植えをして…っていう、今のその向こうにありそうな世界。キャラクター達もみんな高校生ー!って感じが愛おしい。一人ひとりに言及するとキリないからとにかく見て。元気でるよ。さわやかな気持ちになるよ。

 そんなわけで、観てよかったー!となった映画でした。また追記するかも。

劇中夢のほぼ私信

まつもと演劇祭特攻ユニット「せーので、めしあがれ」公演終了しました。

初舞台でした。楽しかったー! 

 

 以下忘備録&座組への私信です。

 

 

公演演目「劇中夢」

 劇場全体(舞台、客席、エントランス、ホワイエ、楽屋etc... )で複数の芝居が同時進行し、観客には自由に歩き回ってもらうと言う「体験型演劇(イマーシブシアター)」を想定した脚本。内容も、劇場にまつわる凄惨な事故と、(劇中において)今は亡きふたつの劇団「しょうちのすけ」と「さるばとーれ」にまつわる物語になっています。

 観客は最初は劇場エントランスに待機。そこに「劇場の新オーナー」である女性が挨拶に現れ、舞台の幕が上がる。コロナ禍による制約や稽古時間などの問題で今回は舞台を中心に展開することになりましたが、エントランスで役者が芝居をし、観客を客席に通すまでは複数箇所で同時進行。

 登場するのは、自らの根幹に大きく深い「欲」を抱える役者(役)たち。彼らは誰もいない劇場で、それぞれの欲するものを何が何でも掴み取るために衝突し、暗躍し、晒け出し、舞台を繰り返し続けている。死者と生者、過去と現在(未来)が交錯し、一つの歪みによって、終わらないはずだった永遠の舞台の幕が降りる。

備忘録(編集中)

 私は稽古途中(10月頭)から、エントランスで踊ったり人を客席に案内する要員に急遽入れてもらえることになったのですが、入れてもらえて良かったー!ダンスは中学校の創作ダンスぶりでしたが、リズム感や柔軟性はないけれど、ディズニーで育ってきた人間なので突然踊り出すラララ〜って感じが好きなんですよ。

 案内の時、テンパってはいたんですけれど、お客様と目を合わせて会話をして芝居をするの、ディズニー(まだ出てきた)ランドのキャストさんみたいでわくわくしました(ゲネ・本番と温かくお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。視線がめちゃくちゃ温かかった…)。

 あ、あと終盤の崩れるあれ、びっくりしていただけたかな。私は一足先に退場していたので、黒子やってました。黒子やった後は平台の後ろで寝そべって耳をそばだててました。笑 楽しかったな~映像で確認したい。

 

 私の役・陸之雷知(おかの・らいち)は劇団「さるばとーれ」の脚本家。独自解釈入るので、さらっと読み流していただけるとありがたいのですが、備忘録として。

 6月ころ、脚本に先んじて役の設定資料を受け取ったときの第一印象は「設定重いな!?」だった気がする。けれど、すごく惹かれた。生まれ育った環境、人生での出来事、転機、それらから構成される性格…と仕事の空き時間にめまぐるしく考えていた。でもやっぱりこの時はまだ「可哀想な子」「暗い子」のイメージが強かった。傷を傷と思わないために偽りの世界を見ているんだな…みたいな。

 ところがどっこい、最終的には、傍目にはめちゃくちゃ情緒不安定で挙動不審で、基本的にテンションが高いキンキン声のやばい人、になりました。笑 

 「気持ち悪く」をキーワードに、8〜9月の稽古はリモート含めて色々試行錯誤してたんですけど、どんどん暗さはなくなっていきました。どの辺で自分の意識が完全に切り替わったかというと、追加のシーンが来たあたりだった気がします。え、この子すごく前向きの未来志向じゃん、ってなった。そしたら、傍目から見たら不幸な出来事も、彼女の中では全く違う意味合いを持っていたんだな、と合点した。実際ちょっと精神的にはおかしくて壊れてるんですけど、彼女にとってはそれが「普通」なんだな、と。

 追加シーンが来るまで、陸之は死にたがりの人間なのかなと思ってたんです。幼少期の出来事で怪物に中途半端にかじられてしまった肉塊。だから彼女は芝居を通して今度こそ怪物に血の一滴も残さずに食べてもらいたいんじゃないかなって。でも追加シーンを読んだら、彼女は何も損なわれてなかったんだなって。むしろあの出来事を契機に、彼女は人間の欲望も汚さも醜さを目の当たりにして、それらが世間一般が尊ぶ美しさとか善性とか慈愛とかそういうものと全く同じ「尊重されるべきもの」だと気づいたんだなって。そしてそれらぜんぶぜんぶを愛したし、全部を抱えて生きていく人間が大好きなんだなーと。彼女が自身の最高傑作と称する「劇中夢」の主演にあの人を選んだのも、彼女こそ「生(未来)」を望む欲望の象徴だったからなんだろうな、と(なんとなく脳内では、陸之にはあの人が向日葵とかの頭に見えてたんじゃないかなと思っている)。

 あと、私は陸之は自分の力で人を変えたい(歪ませたい)人ではなくて、その人の内側に元から当たり前のように存在していたものを、を引きずり出して強化して、それを本人と観客に見せつけたい人のイメージ。見てみて!これがあなたの内臓!ピンク!ツヤツヤ!宝石と同じように綺麗!すごいねすごいね……え、綺麗ですよね?(圧)ってイメージ。

 10月に対面稽古が再開されて、想像の何倍もの気持ち悪さをひねり出す感じになったのですが、最初は本当に恥ずかしくて。演じようとするとどどーっと正気とか羞恥が襲いかかってきてまともにできなかった。それがまた恥ずかしかったし情けなかった。最後には私ちゃんと、彼女の気持ち悪さを当たり前のように演じられていたでしょうか。いやきっと、発声も立ち方も全部全部まだまだだとは思うんですけど。でももう、本番では全然恥ずかしくなかったです。だってあれが陸之雷知だから。彼女の姿が、在り方が、見てくださった方にかけらでも伝わっていればいいな、と思います。あ、あと転け方変じゃなかったかな。ちゃんと怯えられてたのかな。いや「ちゃんと」はまだまだ無理だわ…と堂々めぐりで考えつつ、でも陸之を演じられてとっても楽しかったです。あとゲネ写真見て思った、二重アゴ解消しようって(真剣)

一言感想戦

役者宛はプライバシーに考慮して配役名で。

桜子さん

今回の座組で私と桜子さんは初舞台…のはずが、桜子さんはプレゼン慣れなのか胆力半端ない!観客を相手に最も多く立ち回るオーナー役が、あまりにぴったりすぎました。オーナーの時のまろみのある貫禄と、女優(カサブランカ時)としてのつんつんとした貫禄の使い分けも好き。

大羽さん

みんな思ってるけれど唯一無二。人類共通の笑いのツボみたいなのを刺激する器官を持ってる。劇中夢が悲しい物語で終わらなかったのは、大羽(の役と役者)の力です。他の誰もできない。倒れる時もダンボール吹っ飛ばす時も、自分の身を守ることを知らない全力さなので面白いけどはらはらもした。自分を大事に。

薬木さん

過労でぶっ倒れないか心配してました。嫌味ったらしいキザ(?)な役、ハマってました。本番の「さるばとーれ」の巻き舌今までで一番エントランスに響いてた…。絶対そこそこのイケメン設定なのに、追い出されたりダンボールの隙間から登場したりゴミのように扱われる不憫さが好きでした。

甘裂さん

稽古から本番まで、とってもお世話になりました。私の芝居が少しでもみられるようになっていたのならそれは甘裂さんのおかげです。本番の甘裂さんは目力と言葉の一つ一つが強くて、本当に「ピリピリしてた」。最後の飛び込み、空中で一回転するスタントマンばりの動きに平台の影でびっくりしてました。

セナさん

いっぱいお稽古や雑談に付き合ってくれてありがとう!当日場当たりでの「いきましょう」、私も聞こえた瞬間「イイ!」って思った。ふじりなの、ぽろっと溢れる感じの役としての「らしさ」が特に好きです。そして安定の「別に興味ない」の素っ気なさと言ったら…!二人での場面、コミカルでとっても楽しかったです。

乃薔薇さん

何度も伝えてたけれど本当に乃薔薇さま大好き。棘を身にまといながらも、エゴ丸出しでも、嫌味さがないのは役者自身の優しい部分が滲むからだと思う(そしてそれが、杏子が乃薔薇を慕う説得力になっている)。カサブランカの本読みシーンの時の、強い女!って感じの声も好き。ダンス楽しかったよー!

杏子さん

ふ:日に日に役も役者も乃薔薇さまが大好きになってく感じが伝わってきてにこにこした…。ふちゃんの杏子は依存してる感じがビシバシ伝わってきて、病んでるのにピュア。ピュアだからこそ終盤の狂気が映える映える。「行ってあげてください」のくだりの間の詰め方と目のキラキラさ、ゲネと本番、気圧された。

ダ:本番を終えると、舞台でもダさんの杏子見たかったなあ!の気持ちになりました。乃薔薇さんに対してはまっすぐに従順で、でも時村との場面はで対等にやりあえそうなしたたさと情念が顔を見せる。稽古の、少年感のある無邪気な雰囲気の随所随所に「女」が練りこまれていく過程が好きでした。

時村さん

私生活でも絡みまくってしまった許して。稽古当初は全体的に中性的な雰囲気だったのが、最終的に劇中で脱皮するように変化していくようになってて、良い意味でぞわぞわした。時村とのあの場面をもらえたのは本当に役得だった。言い足りないのでまた感想戦しましょう。あ、あなたのせいでMに目覚めました。責任とってください。

 

脚本、音響、照明、衣装etc...

まとめてしまって申し訳ないのですが、皆様に感謝の気持ちを込めて。初めて役者として立てた舞台が「劇中夢」で良かった。「せのめし」のために書き下ろされた脚本、私のためにつくられた役(と思っている)、優しくてあったかい座組のなかで、初めてのお芝居を満喫できたこと、本当にぜいたく、ぜいたくでした。

14日に小屋入りしてびっくりしました。「舞台だ!?」ってなった。数ヶ月間みんなでリモート含めて頑張ってきたけれど、本番は時間もないし無観客だし、イメージとしてはぴかぴか18期の慌ててやった発表会に毛がついたくらいかなの心持ちでいたんです。

それが、あちこちに照明がつけられていて、スピーカーから音楽流れてるし、レンガのダンボールが積み上がってるし、みんなであれよあれよと平台組み立てて配線を床に固定して…舞台になってた。私が今まで観客として客席から眺めてるだけだった「舞台」を、自分もお手伝いして作れてた!すごい。感動でした(もちろん、お客様を入れて公演するとなるともっともっと大変なことがたくさんあるとは思うのですが)。

思えば、「劇中夢」の小屋入りまで、とにかく「舞台に立てればうれしい」と思っていて、例え板の上に何もなくてもそれはそれでみたいな気持ちでいたと思うんですよね。無理でした。少なくとも「劇中夢」は、役者だけで成り立つ舞台じゃなかった。前から上から後ろから照らしてくれる照明、場面を際立たせる効果音や音楽、劇中劇を表す新聞紙のドレス(めちゃくちゃ可愛かったー!)、そして演出上必要不可欠なダンボールの壁、あれら全てが合わさってようやく「劇中夢」になるんだな、と。

本番の直前も直前にようやく理解して、なんというか、18期の一員としてはHOMEやぱすてる、関係者の皆様に「無観客でもやりたい」なんて、なんて無茶な注文をしたんだろう、とあわあわしてましたしありがたさに何度も胸中で合掌してました。

演出の方々にも本当にお世話になりました。発声や立ち方、まだヒヨッコもヒヨッコで自分で「芝居をした」と称するのもおこがましいのですが、それでも「芝居の一端に触れられたな」という感覚を得られているのは、本当にご指導のおかげだし、芝居って楽しいって思えたのはたくさん教えていただけたおかげです。これからもいっぱい、演劇の楽しさ奥深さ、教えてください。

そして、時間が確保された部活でもなんでもなく、皆様仕事や学業の合間を縫って舞台をつくっている。全員本気で。枯れた学生時代を送ってきた私にとっては、こんな熱量でみんなで何かをするっていうのも初めてでした。毎日毎日楽しかったです。ぴかぴか芝居塾に参加してよかった。皆様とのご縁をいただけて本当に良かったです。気が向いたら(叶うなら気が向かなくても)今後もよろしくお願いします。

しょう

 

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考察ではない妄想のメモ書き(中身知ってる人向け)

全部妄想&仮定に仮定を重ねる話だよ。

劇中夢では、劇団さるばとーれの団員はすべて、20年前の事故で死んだ亡霊(のような存在)として登場するのだけれど、個人的には、彼らは霊魂というよりも、いまわの際に劇場に焼き付いた彼らの強烈な思念(欲望)のような印象がある。その思念が劇場という「力場」によって顕現し、だから人格もそれぞれの欲望を強調した形になっているのかな、と。

時村と甘裂は、全員を道連れに完成を迎えるはずだった「劇中夢」の終わりに、生きながらえている桜子とモト子を見てしまったのかなと思うし、杏子は死ぬ前にようやく乃薔薇に従属する本当の理由(=乃薔薇を永遠に自分のものにする)に気付いたかのかな、とか考える。杏子と言えば、マゾヒストってその実すごく支配的なところないですか?むしろサディストの方が奉仕する側なんじゃないか、とすら思う。杏子ちゃん魔性の女。にしても、乃薔薇様は本当にかわいいな~!彼女は、本当に生きているときも死んだ後も最初から最後まで、一番になりたかったし認められたかったし愛されたかったんだろうな。めちゃくちゃいとしい。

後から気になってきたのがセナの存在。彼女の願い(欲望)は「自分とは違う何かになりたい(演じたい)」じゃないかなーって思うんですけど、だとしたら「劇中夢」にいたセナは本当は生前のセナとは性格諸々違ったりするのかな-!?と。あるいは、もし生前のセナは男だったりしないかな。だとしたら、ちょっと面白くないですか? スカートを履いて怒られた下りもさらに腑に落ちるというか。

個人的には、『劇中夢(劇中劇の方)』のカランコエのキャストは本来セナだったんじゃないかなーと考えている。陸之が「放心した」というセナ主演の舞台で、セナは人間の女性に恋する異形の怪物役だったんですよ。だから男の配役がしっくりくる。モンステラは甘裂か時村かな。

カランコエといえば。何故彼を薬木が演じたかと考えると、彼はずっと「さるばとーれ」の一員として舞台に、劇中夢に立ちたかった人なんですよね、たぶん。さるばとーれ追い出されちゃったから余計に。彼は「終わらせに来た」と言ったけれど、その実、ただ役者としてあの場にいたかったんじゃないかなと。大羽はモト子さんの後を追ったと劇中で示唆されてるけど、薬木はなんかこう、神隠しに遭って消えちゃった感ある。いや、普通に生きてて桜子さんにちょっかい掛けまくってて欲しい気持ちもあるんですが。笑 あー、さるばとーれの一員でありたかった薬木はあの舞台で消えて、生身はもう一度生き直すってルートも悪くないな(こういうのを考えるのが好き)。

モト子は果たして「大根役者」なのか。彼女は会えて言うなら「生きる」欲望の怪物だったのでは、というのは陸之語りでもちょっと述べたんですけど。だとしたら「心中」を演じたときだって彼女のまなざしは「生」を見ていたのでは、と。時村はモト子が劇団しょうちのすけと心中せずに生き延びたことを「心中を未完成にした」と否定的に捉えていますが、むしろしょうちのすけが死んでなおモト子が生きてることにこそ、雷蔵の意図はあったのでは、などと。彼は誰よりもモト子と、彼女の恋人であり、病による死を覚悟していた銅山を見て来た人だとも思うので。

陸之は一人だけ死ぬタイミングが違うわけですが、そういえば私は最初、彼女は時村という怪物に出会って(あるいは、時村というずっと探していた怪物と重なる存在と再会して)、最終的には死を受け入れたんじゃないかなって思っていたりしたんですよね。でも今は、そんなのじゃ満足してなかったんだ陸之は、という気がしている。彼女は人間の執着や抑圧から生まれた怪物が見たかった。そしてそれは「劇中夢」で実現した…と思うと、彼女の欲望もまた、しっかり劇場という力場に反映されてるんだな、とか。良かったね陸之(話変わりますが、陸之だけ死体がいまだに劇場の壁に埋められてる説、好きです)。あ、あと陸之の欲望の一つは「劇中夢が正しく演じられて幕を終える、次の舞台に繋がっていくこと」だとも思うので、最後には「私の勝ち!私の勝ちです!」って言えてるような気がします。

演劇をはじめたよの備忘録

 4月に演劇のワークショップを受けた流れで有志の市民劇団の仲間入りをして、10月の公演で役を頂くことができました。というよりも、その公演自体がワークショップ組や新人層が舞台に立てるよう、脚本や演出の方々が組み立ててくださっているという内容で…めちゃくちゃ贅沢です。役が恐らく当て書きなのですが、客観的に自分がどう見えているのか(全てイコールではないにせよ)わかって笑ってしまったし、当たっている。私のための役、というのは本当になんか…恥ずかしくも愛おしいですね。託された感がある。ありがたい話です。

 新型コロナの影響で対面稽古が難しく、ここ最近はもっぱらLINE通話をつかったリモート。公演もどういう形になるかわからない状況ですが、稽古のたびに発見があってとにかく楽しいです。ちなみに私が演劇をやるのは小学校3年生の学芸会以来。その時の役?たぬきでしたね…。

 

 抑揚、テンポ、間合い、イントネーション、それぞれをどう組み合わせるかで台詞のニュアンスが変わるのが楽しい。それに伴って役の感情の動きが変わってゆくことも楽しい。

 最初、役の設定資料(A4、2枚)と脚本をいったりきたりしながら、この役ならこの台詞はこう言うかな、ああかな…と1人で考えていた部分が、掛け合いになって、演出さんの指導が入ってくる中で変わって、よりしっくりくるものになったり、役の新しい一面を知るきっかけになったりする。

 特に、今回劇中で掛け合いをするお二方は演劇経験豊富で、私の素人丸出しの毎回ブレブレの芝居にも、型にはまらず柔軟に受け止めて返してくれるんですよ。そうすると、会話がちゃんと会話になる。すごい。ありがたく演劇の楽しさの汁を吸わせてもらっています(ジュルジュル)。私も生きた芝居を返せるようになりたい。掛け合う相手に楽しいと思ってほしいし、最終的には見てくれる方にも楽しいと思ってもらえるようになりたい。今まで客席に座って当たり前のように受け取ってきた「舞台」が、役者さんや裏方さんたちの高度な思考と計算の結晶だったのかを身をもって体感しているので、いつか舞台に立つことは正直、とても怖いけれど。

 

 役作り、最初は自分の中に役の人格を作っていくイメージでいたのですが、最近は他人を知って寄り添っていくような感覚に近いです(正解かはともかく)。この言葉に力を入れる(入れたい)子なんだ、だとしたら彼女はこう思って考えているのかな…と相手の内面を手探りしていく感じ。

 誰しもあると思うのですが、一緒に行動する時間が長かったり、互いに良好な関係を築けてるなって感触がある相手とって、自然に動作が被ったり、次の思考や言葉が読めたりする(気がする)時ってあるじゃないですか。現時点では役とそういう関係になれたらいいなーって思います。これから演技の指導を受けていく中で自分の考えもどんどん変わって行くかも知れないけど、それも含めて楽しみです。柔軟であれ。

 

【観劇記録】I will always remember you

演劇ユニット「カニバル!!!!」さんの公演「I will always remember you」を観てきました。お初のユニットさん、お初の演者さん、お初の箱。

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会場前の撮影フリータイムにて。一眼と魚眼持っていけばよかった。

わくわくしません?

写真の通り、とても小さな箱…もとい、実は蔵です。蔵なんですよ。それがまたいい。ドラえもんの、勉強机の引き出しからタイムマシンの世界に飛び込むような高揚感がある。日常から非日常へ、綺麗に気持ちが切り替わる。

会場に足を踏み入れた瞬間視界を占拠する、床に壁に貼られた付箋、付箋、付箋。カラフルで、そこはかとなくサイケデリックな色合いで、ドット絵めいても見える。目を凝らせば付箋には数式や英語や断片的な言葉が書き散らされている。観客を迎える3人の演者のうち1人は白衣を着込んでいる。科学者か、あるいは医者か。なんとなく、この舞台の空気がつかめてくる。

あらすじ

ある日、あの子は未来に向かってのみ時間を跳ぶことのできる能力を手に入れます。この謎を解き明かそうと、3人の男が言葉を尽くします。あの子を今に留めていたお兄さんが病死します。楔を失ったあの子は、お兄さんの夢だった火星への宇宙旅行が実現しているであろう遠い未来に跳ぶ決意をかため、朝焼けの向こうに、未来に跳んで行きました。

以下、ネタバレに配慮しようと思ったけど配慮できないし、考えるより感じろになってしまって電波になってしまった感想。箇条書き気味。記憶が抜けてたり間違ってるところがあったらごめんなさい。

Aパート

3人の男たちが矢継ぎ早に語る時代の移り変わりが面白い。あ、もしかしてあれのことかな、あれ、そのことは知らないな、え、今(劇中時代)はそんなことになっているのー!?と前のめりになる。その激動し変遷してきた時代と相反するかのように、ぽつんと浮かび上がる「あの子」の存在。こうたが口にした「あの子は本当に少ししか変わっていなかった」という趣旨のセリフ、見終わった今だと(こうた…)の気持ちになる。

Bパート

りょうた(演・三河さん)、語りまくる。目がキラッキラしている。圧がつよい(ほめてる)。淀みない、すごい。

この辺思い切り自己解釈になってるんですけど、宇宙と科学の話であり、自他と哲学の話であると受け止めてました(私の中では同質なんですこの二つ)。「こっち(自分)」と「あっち(他者)」が相互に作用することで、互いの存在が立証される。不可能が存在するがゆえに可能が存在し、「ない」が「ある」から「ある」がわかる…みたいな。極め突き詰めていったものは、一点に収束されてるかのように似ていく(ように見える)けれど、それが真に収束点(終わり)であるかは誰も証明ができない(シュレディンガーの猫のごとく)。可能と不可能、自分と他者の浸透圧。あ、だめだな電波めいてきた。とにもかくにも、小気味好く耳に飛び込んでいくる、心地よい語りとやりとりでした。

「あの子」が未来に跳躍した原理の解明(考察)に前のめりになるりょうたと、耳を傾けてはいるけれどどこか一歩引いているようなこうた、彼らのやりとりを整理していくように言葉を落としていくのぶ先生。「あの子」に向ける三者三様の眼差しの片鱗を感じたパートでもありました。

Cパート

医者であるのぶ先生(演・村上さん)と「あの子」の間にはまず「お兄さん(患者)」がいる、というのが印象的。「患者の妹」の側面が強かったんじゃないかなあ、などと。あるいは彼女自身も「患者」であったのか。

お兄さんの難病は、まるでりょうたが語った「あっち」にアクセスする術を得た人に課せられた代償のようでもある。そう思うと「あの子」はある種お兄さんと同質というか、「あっち」にアクセスができる上、本来なら命を削る代償に対抗する「抗体」を持っている「新人類」みたいにも見えてくる。

お兄さんと同じ難病の人たちには現状、緩和ケアのような対処しかできない。のぶ先生はお兄さん以前にも患者を看取ってきたのかな。それでも治療の道を模索してきたんだろうな。母数の少ない難病の解明よりも需要が大きい(利益が見込まれる)認知症の解明(対策)に研究費が持ってかれるのがリアル。

Dパート

こうた(演・掘さん)と「あの子」のパート。私の中では情景が薄川の河川敷でした(冬に見晴橋のあたりで朝焼けとモルゲンロートを撮ったんですよね)。北アルプスから登る朝日に向かって河川敷を駆けていく二人、朝日にとけて「跳んで」いくあの子、みたいなイメージでした。あの子を見送るしかできなかった、あの子の「楔」になれなかったこうた…。掘さんの走りながらや背を向けた後の台詞、めちゃくちゃ良かったです。言葉にしてしまうと陳腐だけど、疾走感と青春感めっちゃ浴びた…甘酸っぱかった…。

こうたからあの子への感情の矢印は恋愛でなくても全然全く構わないのですが、Aパートで、彼女が未来で彼らの前に姿を現したのが、先生の結婚式とりょうたの娘が生まれた時(記憶曖昧なので間違ってたら申し訳ない)と語られていたのを考えると、こうた…の気持ちになりますね。時の流れが異なってしまった、あの子とこうた…。

 

I will always remember you

タイトル。直訳するなら「あなたを忘れない」。「(あなたを)忘れない」って「(あなたにもわたしを)忘れてほしくない」の裏返しでもある気がする。私が貴方を忘れた時、貴方の存在によって証明されていた私自身もまた、喪われるのだ、みたいなことを考える。劇中では、三人の男が「あの子」を語ることによってその存在を証明していて、逆に、語られる「あの子」によって彼ら三人もまた、描かれている。Bパートの感想にも書いたけれど「相互作用」を強く意識した物語でした。

あ、あと最後に「あの子」の名前が「ユウ」だと明かされるわけですが、これは「you」でもあり「有」でもあるんだなと。

 

その他のこと

・衣装。こうたとのぶ先生がモノトーンだった分、りょうたのシャツが有色だったのが個人的に意味深に見えたというか、そこに意味を見出したいな…の気持ちになった。白い衣装がプロジェクターの映像で染まるのも面白かったです。

・舞台美術始め、プロジェクターや音楽といった演出が素敵でした。あの箱の規模感にすべてがぴたっとハマってて心地よかった。四方向からのライトも良かった。青のライトがブラックライトっぽく衣装に反射してて面白かったです。

 

めちゃくちゃ濃厚で脳みそが活性化した舞台でした。役者のお三方、裏方の皆様、素敵ば舞台をありがとうございました。

また思い出し次第追記します。!

 

 

【観劇記録】歌舞伎NEXT 阿弖流為〈アテルイ〉

www.shochiku.co.jp

新年一発目の劇観賞(円盤)でした。円盤、歌舞伎を愛する友人からの頂き物なのですが、鑑賞後思ったのは「あまりにも豪勢&贅沢な品すぎません…?」ということでした。良いのですか、この円盤を永遠に私のものにしてしまって…もう放さないよ…。
そして手元には自分で買った劇団新感線さんの「アテルイ」もあるんです。こっちも観るのよりより楽しみになりました…というか公演としてはこちらが先なのですね。

 

そんなこんなでご縁を頂いた「歌舞伎NEXT 阿弖流為」…最高でした

もとから阿弖流為と田村麻呂周りの、東征と平城・長岡・平安の遷都のあれこれは、児童文学「勾玉シリーズ/荻原規子」3作目「薄紅天女」で小中でどっぷりはまった題材でもあり、ハマらないはずはなかったのですが…想像以上でした…!

冒頭で無頼風の田村麻呂(演・中村勘九郎)が出てきた時点で最高が約束されてしまい、盗賊の女統領(立烏帽子/鈴鹿、演・中村七之助)の華麗な殺陣にウワーとなって、ワイルドな雰囲気の阿弖流為(演・松本幸四郎)の登場にひっくり返り、さらに鈴鹿蝦夷の血族(阿弖流為の恋人)という展開に…精神は逆立ちをしていた…。ここまででまだ序盤も序盤だった…。

阿弖流為鈴鹿を守るために蝦夷の神(アラハバキ)の眷属である白い獣を殺し、その罪で蝦夷の一族を追い出されているのですが、鈴鹿によって名を取り戻し、蝦夷の長として、朝廷に抗うことを決める。田村麻呂と阿弖流為は初見から互いの性質に共鳴/共感を覚えているのですが、同時に、武人として、大和人(蝦夷人)として、ともに肩を並べ生きることはない、ということを明確に悟っているのが潔く、切ない。ですし、後半にそんな田村麻呂に共生の道を示すのが、誰よりも阿弖流為を愛した女である鈴鹿なのが、とても胸にくる。

歌舞伎は初心者なので月並み&頓珍漢なことしか言えないのですが、歌舞伎ってこんなに動くの!?って程に動く!飛ぶ!斬る!ちゃんばら好きにはたまらない!それでいて絵画的な見やすさが考え尽くされているというか、緩急、止めの技巧が凄まじいと思いました。特に斬られる側の。ただ流動的に動いているだけではなくて、かちりかちりと画面がハマって絵になるというか…もちろん一般的な舞台の殺陣にも共通したことだと思うのですが、殊更に見せ方に魅せられたという感覚になりました。

あと鈴鹿の!海老反り(この言い方であってる?)が!美しすぎて!白い獣に襲われるシーンなのですが、あまりの美しさに脳に焼き付いて離れなくなってしまった…。円盤の特典ディスク(!)には稽古中の映像も収録されていたのですが、衣装を着けていない稽古中の中村七之助さんは、容姿は確かに男性なのに、声も、身のこなしも、全てが鈴鹿で、視覚と聴覚のズレで頭がバグったかと思いました。文字通り「神憑り」の演技だなと思う。特に鈴鹿は終盤に明かされるあることと、七之助さんの演技があまりにもマッチしすぎていて震えました…。凄まじい。

田村麻呂と阿弖流為は(先入観込みの)鏡映しのイメージが強すぎて、まだ彼ら一人一人をきちんと観られていない気がする。勘九郎さんの田村麻呂は風来坊のような自由さ、軽快さに惹かれるけれど、その実「家(血)」を断ち切れない不自由さに対する葛藤(そして諦念)を感じるところもあり、幸四郎さんの阿弖流為は厳格そうに見えて一度一族を追われた身でもう一度「選んだ」というしなやかさみたいなものを感じたり。一筋縄ではいかないものを抱えた、互いが互いを浮き彫りにする二人だったなと思います。そして勘九郎さんも幸四郎さんも実はとてもお茶目な方でしょ…伝わってきた…(好き)。

好きな題材だったのも相まって、始終目が釘付けなめちゃくちゃ濃密な舞台でした。良い観劇初めになりましたありがとうー!!(ネタバレ込み走り書きは最下部に順次追加)

 

歌舞伎NEXT『阿弖流為アテルイ)』

作・中島かずき 演・いのうえひでのり

阿弖流為市川染五郎
坂上田村麻呂利仁:中村勘九郎
立烏帽子/鈴鹿中村七之助
阿毛斗:坂東新悟
飛連通:大谷廣太郎
翔連通:中村鶴松
佐渡馬黒縄:市村橘太郎
無碍随鏡:澤村宗之助
蛮甲:片岡亀蔵
御霊御前:市村萬次郎
藤原稀継:坂東彌十郎

美術/堀尾幸男   照明/原田保   衣裳/堂本教子
音楽/岡崎司   振付/尾上菊之丞   音響/井上哲司 山本能久
アクション監督/川原正嗣   立師/中村いてう
ヘアメイク/宮内宏明   舞台監督/芳谷 研
宣伝美術/河野真一   宣伝写真/渞忠之   舞台写真/Sakiko Nomura

 

・あと蛮甲とクマコがあんなに描かれるなんて…予想してなかったよ…異種婚姻譚(?)じゃん…(???)。「生き意地の汚い男」は「髑髏城の七人」の裏切り渡京を思い出しちゃいますね。よっ、憎まれっ子世にはばかる愛され役!

 ・田村麻呂の「義に『大』が付いて『大義』になると胡散臭くなる(記憶あいまい)」といった趣旨の台詞にははっとさせられました。「正義」とかもきっとそう。

・ 阿弖流為、の名をとりもどさせたのは、鈴鹿ではなくアラハバキ…って考えると、阿弖流為は名前を失ったままなら、もしかすると田村麻呂と武人として肩を並べて生きていた未来があったのかも…知れない…みたいなことを考えてしまった。名前というのは寄る辺であるので。名前を取り戻せない 阿弖流為蝦夷の地にたどり着けない気がするのだった。

 

完全に個人的な話なのですが、アテルイと田村麻呂もとい、あの時代の東征と平城・長岡・平安の遷都のあれこれは、私が小中でどっぷりはまった児童文学「勾玉シリーズ/荻原規子」の三作目「薄紅天女」のベースになっている時代でありまして。田村麻呂はあの物語ではサブレギュラー的ポジション。彼は都の貴族で有りながら、東の蛮族と恐れられていた蝦夷アテルイに共鳴・共感する、幼心に大層印象に残っていた人物なのでした。私は何でかずっと(足を運ぶ機会に恵まれないのだけれど)東北という土地に引かれるものがあって、清水寺に立ち寄った際には、ついついアテルイとモレの碑に足を運んでしまったり、する。